ダンクです。
先日、友人たちとちょうど一年ぶりに読書合宿を敢行しました。
みんなで本を持ち寄り、1泊2日でひたすら読み明かす。疲れたら温泉に浸かる。そんな旅。
参加者は、前回に続いて僕と友人2人、そして初参加の1人を加えた4人旅。
場所は長野の山奥にある温泉旅館。前回の読書合宿で利用した旅館が非常によかったので、今年も同じところにしました。
ちなみに、前回の旅行については彼が書いてくれていました。
ankakeassa.hatenablog.com
今日はその旅行と、読んだ本について書きます。
(調子に乗って書きすぎました。1.4万文字あります。)
- 9時半ごろ、名古屋駅で初参加の友人と合流。
- 1冊目:本の読める場所を求めて
- 12時過ぎ、松本駅に到着。
- 13時半、食事を済ませたらすぐに旅館へ出発。
- 15時10分、チェックイン開始とほぼ同時に入館。
- 16時。夕食に向け、まずは4人で風呂に入る。
- 2冊目:プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近
- 18時半。待ちに待った夕食。浴衣に羽織を纏い、食堂へ。
- 3冊目:近畿地方のある場所について
- 4冊目:砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet
- 5冊目:好き?好き?大好き?
- 6冊目:結ぼれ
- いつの間にか、時間感覚はとろけて消えていた。静まり返った廊下には、スリッパを履いた自分の消しきれない足音が響いた。
- 4時半、就寝。
- 7時半。早く寝た二人に起こされ、もぞもぞと蠢く。
- 10時、楽しい時は一瞬で過ぎる。惜しみつつ退館。
- 12時前、松本駅で土産物を見終え、昼飯へ。
- 13時、「また何かしよう」と声を掛け合い、二人と別れる。
- そして今日。
9時半ごろ、名古屋駅で初参加の友人と合流。
JRの改札前に集合するように伝えていたものの、なかなか来ないな。あっ、いたいた。
最近短く髭を整えているのと、首掛けヘッドホン、先週フェス会場*1で買ったサングラスが相まって、ちょっとこわい人がいると思われていたらしい。そっかー……。
サングラスを買ったときに「こっちが似合ってますよ!」「胡散臭くなくていいね」と言ってた露天のお姉さん&会社の同期A氏の感性と、我々のそれとは少々ズレがあるのかもしれない。
気を取り直して特急しなのに揺られること2時間。
車窓から見る山景にかかる雲が厚くなってきた。どうやら今日の午後から明日にかけて雨が降るらしい。
憂いても仕方がない。さっそく本を読んでいこう。
1冊目:本の読める場所を求めて
「本の読める店」を開店した著者のエッセイ。
著者は、「今日はがっつり本を読んじゃうぞ~」と思っても、家でもカフェでも図書館でもゆっくり読めないと感じ、理想の読書空間を提供することにしたそう。
確かに、本を読むにあたって、
①騒音や光などの環境に邪魔されず
②気が済むまで何時間でも
③店に対して気後れしないで
読書に集中できる、
そんな場所は意外と思いつかない。
カフェで長居することにかなり神経質になってしまう著者と違い、自分は、割と平気で喫茶店に居座る傾向がある。この記事を書いている今も、コメダに入って3時間半が経っている。
でも、さすがに自分なりに気を遣う。
自宅周辺で一番お気に入りの喫茶店は、高齢夫婦や背伸びしたカップルが来る「いい店」である。
本は読むが、ここで書き物をするためにノートを取り出したり、PCを開いたりする気にはならない。迷惑にならないと思われる範囲で長居しようとするが、頻繁に注文するし、満席になったらすぐに出る。まあまあ人気の店なので、2時間を超えて居座れたことはあまりない。罪悪感もそこそこある。
コメダなどの一般に長居できるとされる店でも、1~2時間おきに追加注文するように心がけている。
もちろん空腹ではない。カフェインに特別強いわけでもないため、コーヒーや紅茶が3杯くらい続くと次第に動悸がして落ち着かなくなる。
席料はちゃんと払うから、店の回転や注文の間隔なんて気にしないで、何時間でも好きなだけ本を読みたい。しかも集中を途切れさせてこない場所がいい。
著者は、読書好きに潜むそんな隠れた願望に気付き、全ての本読みの理想を実現すべく、「本の読める店」を作った。
ぜひ、東京に行った際は、この著者の店に行ってみたい。そう思うだけの魅力があった。
あと、本書の論点から派生した感想としては、以下の通り。
- そういった読書のインフラから外れる田舎の人間は、自力で読書空間を作り上げるしかないよな、と思った。自分も今の場所に住んでからは海岸とか公園でブルーシートを敷いて読んでたこともあったし、みんな色々考えてるのかもしれない。
- 推し作家の新作を一気読みするような「ハレの読書」という概念を自然に持ち出していたことが印象的だった。そうでない「ケの読書」を山ほどしている人の発想だ。確かに同じようなことを思うことはある。
- 結局のところ、「客単価が~」とか気にしないでモーニングで昼まで居座ったり、オシャレ空間に疎外感を覚えなかったり、そういう厚かましい人が一番生きやすいんだろうなぁ、と思った。でも、そういう人って本読まないだろうなぁ、とも思った。*2
図書館よりもカフェよりも、もっと本の読める場所があれば、確かに素敵だな。
そういえば自分も、「本の読める場所を求めて」長野に移動してるんだった。
今日の読書がより楽しくなれば嬉しい、そんな本でした。
12時過ぎ、松本駅に到着。
先駆けて10時台に着き、先に喫茶店で待っていた2人も駅前に出てきて、つつがなく全員集合しました。
昼飯。
私が計画段階から「そばが食べたい」と希望を出していたこともあり、電車内で調べていた松本駅付近の蕎麦屋に歩いて行くことに。
当初予定していた店は人気店だったようで、入店まで1時間くらいかかりそうな行列だったため、近辺の蕎麦屋を探して滑り込む。
さすが長野、蕎麦屋が多い。
頼んだのは天ざるそば大盛。デカくて美味い!
なすの天ぷらってなんでこんなに美味いんですかね。
蕎麦湯まで飲み切って完食。気持ちいい満腹感だ。
13時半、食事を済ませたらすぐに旅館へ出発。
長野在住の友人の車で田舎道をひた走る。(運転ありがとうございました)
旅館には自販機も売店もない。道中のコンビニで夜用の酒やお菓子を調達し旅館へ向かう。
しばらくすると、予報通り雨が降ってきた。
帰りの電車、止まったら困るな。まあ明日は三連休の二日目だから最悪帰れなくてもいいか。などと考えながらお喋りしていたら、いつの間にか山道に突入していた。
15時10分、チェックイン開始とほぼ同時に入館。
運転お疲れ様でした。
旅館に入る前からすでに匂う硫黄香に心弾ませる。
チェックインの受付後、スタッフの方から、「去年も来ていただきました?」とのありがたいお言葉。
たぶん顧客データベースで管理しているのだろうが。来年もし行くなら、違う人を代表者にしてみようか。
仲居さんに案内してもらった8畳ほどのシンプルな和室(なんと去年と同じ!)に着き、荷物を置き、すぐさま、誰とはなしに持ち寄った本を展開していきました。
今回持ったいった本がこちら*3。趣味を前面に出しつつ、読後感がいい本、斜め読みできる本を主軸に据えて選書しました。
各々が自分の本をプレゼンし、満足すると、去年と同様に床の間へ並べる。
参加した4人分の本をまとめると、こんな感じ。
4人で64冊。壮観!何より、自分に全く縁のない本がこんなに並んでいる、この違和感・非日常感が非常によい。
16時。夕食に向け、まずは4人で風呂に入る。
風呂は四角い木造の内風呂が一つ、これまた四角い露天風呂が一つ。露天の方がやや広いとはいえ、快適に入れるのは4人まで。
しかし、広さなどなんの問題もない。
この風呂はとにかく泉質が抜群!硫化水素型の硫黄泉、そしてなんといっても無加温の100%源泉かけ流し!源泉かけ流し、ああ、源泉かけ流し。なんという甘美な響き。
強烈な硫黄の香りを吸いながら身体を洗い、熱い内風呂にいざ入湯。きもちいい~~~!!
pH3.3の白濁した酸性泉が身体に染み入る。染み入る。染み入る。……熱い。
耐えかねて外風呂へ。おお、雨が降っていて涼しい。
外風呂は雨と外気で適度に冷まされ、ちょうどいい。ぁあぁぁぁぁ、溶ける。
やがて4人全員が露天に集合する。
「来てよかったねー」とか、「明日は天気大丈夫かな」とか、些事を喋りながらのぼせるまで入る。
やはり最高であった。来た甲斐があった。満足。いやいや、本読みに来たんだった。
風呂を出て、部屋に戻る。
夕食は18時半。今は17時。まだまだ外は明るい。本を読もう。
2冊目:プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近
様々な著者がアンソロジー形式で、ゲームに対して様々な切り口で批評したもの。
内容よりも、ゲームについて深く考えるきっかけを与えてくれたことが自分にとって重要だった。
ここ数年で、ゲームを学生の頃ほど本気で遊べなくなってしまった。
幼い頃遊んだピコ*4やSFCのスーパーマリオコレクションに始まり、近頃遊んだシレン6やGGSTに至るまで、さまざまなゲームを遊んできたが、人生が狂うほどハマったゲームを挙げると、
主に小中学生の頃遊んだメイプルストーリー
高専生の頃遊んだPSO2
高専生から社会人3年目まで本気で取り組んだスマブラ(for/SP)
この3つを挙げるしかない。
なぜこれらのゲームに本気だったのか。
これは過去の内省で、自分の中である程度結論が出ている。
メイプルストーリーは、ゲームの中のキャラクターが強くなると、増えていく数字に伴って自分が偉くなると半ば本気で思っていた。
PSO2は、自分の中でゲーム内の世界(コミュニティ・ステータス・ゲーム内経済などの総体)は現実と同じように存在しており、現実世界を生きるのと同じように重要だった。
スマブラは、クラスメイトに勝つとか大会で優勝するといったスポーツマン的動機で練習していたが、煎じ詰めると「強い奴が偉い」と思っていたからだろう。
これらのゲームは、最初は知人に誘われ、増えていく数字や情報に魅力を感じてのめりこみ、自分の中で現実と同じ重みに達したのちに、最終的にどれも「時間がない」という一点で諦めている。
スマブラは、20年の秋に出た大会で格下だと思っていた相手(大学生)に負けて予選落ちしたとき、心が折れて上を目指すのをやめた。時間がない社会人では自由な学生には勝てない。
PSO2は社会人になる頃(2019年)にやめ、NGSのサービスイン*5のときに戻ってきたが、結局、最新コンテンツを追いかけられる時間を継続的に取れずに2か月くらいでやめてしまった。
メイプルストーリーは、「やったら終わる」と思って長らく触らないようにしていたが、今年の7月に会社の同期B氏に誘われ、それと同時期に当時好きだった職業のリメイクがあった*6と聞いて、戻ってしまった。しかし結局、3週間くらい熱心にレベリングしたあと、仕事から帰宅した後の時間が読書や他のゲームなどのやりたいことに対して全く足りず、メイプルにかける時間を出し切れずにやめてしまった。
このように、ゲームの天敵は時間の無さである。つまり自由時間を大きく制限する仕事が悪である。
……と思っていたのだが、最近それも言い切れなくなってきてしまった。
それは、最近になって、一人でゲームができなくなってしまったから。具体的には、一人用のゲームを配信しながらでないと遊べなくなってしまったのである。
自分はゲームをするとき、いつもDiscordのグループ通話でプレイ画面を共有している。
画面共有をしながら、それについて話をする。常に誰かが見ている(かもしれない)状態でゲームをする。すると、友達の家で集まってゲームしているような気分になる。
身内との対戦ゲームなら配信しなくても気が済むのだが、不特定の人間とマッチングしている状況だと、配信しながらでないと長時間やる気が続かない。
たぶん、今の自分は、ゲームを単なるコミュニケーションツールだと思っている。
仮に仕事をやめたり自由に時間を取れたとして、ゲームを現実と同じ重さまで捉えなおせるのか?ゲームに対する情熱は帰ってくるのか?仮にその一時はまたハマれたとして、歳を取ってもずっと情熱を維持できるか?自信がない。
魔法が解けかかっている。
——ということを考えながら読みました。長々とすみません。
読み終わったら18時20分。程なくして、夕食の準備が完了したと電話がかかってきました。
18時半。待ちに待った夕食。浴衣に羽織を纏い、食堂へ。
自分の名前が書かれた卓を一目見て気付く。去年と全く同じ献立だ!
なるほど、季節で内容を変えているなら、ほぼ1年後に来たら同じものになるのか。
まさか、去年大満足だったあれらを再び食べられるとは思わなかった。
コントの小道具みたいな生酒も一年ぶり。これ、味はしっかりしてる割にアルコール感が薄めで、後味がすっきりしてるからかなり好み。
小鉢、3つあって全部うまい。山芋が異常に美味い。お品書きに書いてある牡蠣醤油があればこうなるのか?たぶんそんなことはない。
岩魚の塩焼きも美味い。川魚の串焼きなんてここでしか食べないな。
土鍋の中身は鴨鍋。肉厚なキノコが、ダシを出してなおメインを張っている。具沢山でかなり量が多いが、残すなんて選択肢などない。
おひつに入った白ごはんを茶碗1杯強残し、女将さんに生卵を頂けるか声をかける。
「もしかして、、おじや、、ですか?」
さすがプロ。サービスで生卵を頂き、おじやにする。とっくに満腹だけど美味すぎて手が止まらない。
完食。ごちそうさまでした。
明らかに食いすぎで苦しい腹を抱えて客室に戻る。布団が敷いてある。
仲居さんは、部屋の床の間にある大量の本を見て何を思っただろう。
もしかしたら同じことをしている客がたまにいるかもしれないし、もっとトンチキなものが置かれていることもあるかもしれない。
さあ、本を読もう。
普段読まないジャンルがいいかな。ふとスマホを見ると20時を少し過ぎたところだった。夜はまだ始まったばかり。
道中のコンビニで買ったワゴンセールのギンビスをかじり、読み始めた。
3冊目:近畿地方のある場所について
先月読んだ『サユリ』以来2冊目のホラーで、これが初めて読むホラー小説となった。
モキュメンタリーとよばれる形式(たぶん)で、近畿地方のある地域で群発する怪奇現象について調べたオカルト誌編集者の調査資料を集めた形式を取っている。
カクヨムで連載されていた作品の書籍化で、資料それぞれが短編として順次投稿されていたようだ。
一つ一つは短いが、それらを統合した一冊の分量はそこそこ多く、重要そうな記述もあればそうでなさそうな記述もあり、こういった形式に慣れていないこともあり読み進めるのに難儀した。
最初は旅館の窓際にあるちょうどいいスペース(広縁というらしい)の椅子で、一人で読んでいた。ところが、中々事件の全貌が見えてこず、しかもどの報告書も人が狂うか死んでいき、ずっと落ち着き悪く、焦らされているような感じがした。ホラーにほとんど触れずに育ってきた自分は、ずっとソワソワしており、半分読んだあたりで耐えかねて他の3人がいる布団のある側に逃げて読み進めた。
終盤は事件と事件が繋がっていく様がよくわかり、怖いというよりかはスッキリした。終わり方も嫌いではなかった。
この結末を予想できた考察勢はすごい。
しかしやはり、これはリアルタイムでカクヨムを追いかけていたらもっといい読書体験ができたのだろうな、とも思った。当の自分はカクヨムの頃から本作を認識していたが、ホラーが苦手で1話しか読まなかったので論外である。
かなり苦戦したが、読み終わると23時だ。少し眠いがまだまだいける。
そろそろ、アレ、読むか。
4冊目:砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet
去年の読書合宿では、深夜に『ボトルネック』を読み、精神に大ダメージを受けて風呂に入った。
『砂糖菓子』の持ち主から、「今年のボトルネック枠」と聞いており、嫌な予感はした。でも、こういうときでもなければ自分から読む気にならない。
せっかく精神的な文章を読むならと、センチメンタリズム全開にすべく深夜に手に取った。
読破した感想を一言で述べると、やはり非常によい作品だった。そしてとても嫌な気持ちになった。心が動く作品はいい作品である。
この本の感想(考察?)を語る上で、論点が2つある。
1.子供は無力で、子供の不幸の原因は親や周りの大人にある。
子供が大人の庇護や愛情を求めるための防衛反応を「砂糖菓子の弾丸」と解釈すると、周りの大人はその子なりの「砂糖菓子の弾丸」に気付いて、大人が「実弾」で守ってあげないといけない。そもそも子供に砂糖菓子の弾丸を撃たせるべきではないのだが、撃たせてしまっているなら気付いてあげないといけない。
しかし、子供の「砂糖菓子の弾丸」に気付くことは現実問題として難しい。
その理由の一つとして、子供によって「砂糖菓子の弾丸」の撃ち方は異なることが挙げられる。
ある子は「大人びている」という撃ち方かもしれないし、他の子は「変なことをして目立ちたがる」かもしれない。
他にも、「他人をいじめる」「他人を殴る」「すぐに謝る」「親離れができない/拒絶しようとする」などなど、無数に考えられる。それらのサインを「砂糖菓子の弾丸」だと判断してあげることは、かなり難しい。
もう一つの理由は、それ以前の問題として、大人*7が子供だった存在から地続きである以上、一人の子供だった存在としてしか子供に接することができないからだ。こちらの方が本質的な問題かつ深刻だと思っている。
大人は一人の子供だった存在であるために、多くの大人は子供の頃に置かれた環境による歪みや不幸をそのまま抱えている。
大人になってから子供たちと接するまでの間に自身の歪みをメタ認知して矯正・昇華*8できないと、なぎさの母親のように子供の撃つ「砂糖菓子の弾丸」に気付けないばかりか、藻屑の父親のように自身の歪みを後世に伝えていくことになる。
きっと、藻屑と出会わなかったなぎさは、わが子に「実弾」を持たせることに固執する親になっている。藻屑が大人になれていたら、自分が受けた仕打ちを愛情として与えていたかもしれない。
一方で、これは持論だが、子供に歪みを伝えるその大人は悪だが、彼らに真の責任があるとは必ずしもいえないと考えている。何故なら、子が親の教育しか受けられないように、親もまた、その親からの教育しか受けられないからである。
見たことがなく想像できないものを作ることは極めて困難であるように、自分の受けた教育から大きく外れた教育を子に施すこともまた困難である。
こう考えていくと、世の中の歪みや不幸といったものは世代を超えて遺伝・伝搬し、本質的に断ち切れないものだと思う。
私は常日頃から、悪人や"残念な人"を見ると、「育ちが不遇だったのだろう」と考えるようにしている。(損害賠償といった実際的なことは難しいが)悪事や不幸の本当の責任の所在は、悪人の親の親の親の——遥か祖先に遡ってしまい、どこにもない。
本書を読破して、この考えが一層強化されたように思う。
2.子供は与えられた環境を正しく評価することができない。
少年少女たちは、親から与えられた環境を甘受することしかできない。
その中で各々の考える精一杯を生きている。
しかし、その精一杯(=砂糖菓子の弾丸)に意味がないことはおろか、弾丸を撃たなければならない自分自身に疑問を覚えることは早々できない。
なぜなら、(藻屑に接するなぎさのように)他人の置かれている状況をまじまじと注視しない限り、自分の置かれている状況が唯一絶対のものであり、客観的に認識できないからだ。
本を読んでいる自分も、実家を出てから初めて歪みに気付いたことを思い出させてくれた。
当事者だったころは、何も疑問に思わない。大人になって、実家を出る。外から元いた自分を見返したり、他人の家庭と比べる視点を得たとき、ようやく異常性に気付く。
やはり誰もが、一度だけ、数年だけでも実家を出たほうがいいと思った。
無論、実家の異常さじゃなくて偉大さに気付くかもしれない。
一息に読み切り、ぐったりした。
気付けば時刻は午前1時30分。風呂に入るか?
運転手を務めてくれた友達と、残り3人のうち一人はすでに寝ている。起きているのは自分含めて残り二人。
彼は私が持ってきた『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』を読んでくれていた。あと3割といったところか。もう一冊、軽く読むか……
5冊目:好き?好き?大好き?
6冊目:結ぼれ
まず、『好き?好き?大好き?』を手に取った。
女の子が大きく描かれた今風な表紙、帯やあらすじを読むと、サブカルに大きな影響を与えた詩集の名作らしい。ははん、タイトルからしてこりゃ純愛モノだな。ページ数も少なめだし、一気に読もう。
開く。
うわっ。怪文書だっ。一目見てゾワっとした。鳥肌立った。
多くは2人の会話を文章化した形式の詩として展開されていくのだが、会話が全く嚙み合っていない。
コミュニケーション不全という概念を純度100%でそのまま言語化しているように見えた。
眉間を押さえながらページをめくるが、どういう意図を持ってこの文章を書いているのか、2割くらいしか理解できない。こうなると、正解となる解釈など初めから用意されて無いような気すらしてくる。自分の内面に問え、的な。
困った。これはそう、よくわからない絵画を見たような感覚だ。
自分が絵画を鑑賞するときは、一目見た印象、モチーフ、素材、作者、そしてそれに正対する自分の感覚の順で想いを巡らすことが多い。
解説まで読んでも意味の分からないアートは、最後の「自分がこれを観てどう思ったか」という一点で評価するようにしている。
ということで、絵画、特に現代アートを鑑賞している気分で、特に自分の内面に問いかけるように読んだ。
……あー……これ、ちょっとだけわかるかも。
あぁ、一見異常なのは「彼女」だけど、うんざりして投げやりな返事をしてる「彼」も不和の原因だよな。
などというように。それでも大部分はイメージできずに流し読んだ。
半分くらい読んだが依然として唸っている私を見て、「旅館のちょうどいいスペース」の向かいの椅子で『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』を読んでいた彼(『好き?好き?大好き?』の持ち主)から
「先に『結ぼれ』読んだ方がいいかも」
というアドバイスを受けたため、『好き?』は一旦置いて『結ぼれ』を開いてみた。
適当にページを開いてみた。
……こっちの方が意味わかんねーよ!
ずっと論理パズルみたいなことをしている。
抗議の視線を向けると、
「最初の数ページ読んでみ」
とのこと。半信半疑で最初から読んでみる。
よかった。序文だけはまともな文章だ。
この文章を読んで、ようやくこの作品群の意図を理解した。
本書において素描したもろもろの模様は、人間を束縛している諸関係にかんする
これらの模様はそうひどく図式化されているわけではないからそれの源泉をなす、きわめて特殊な経験まで遡って考察することがでいないほどではなかろう。
な、なるほど。精神科医でもある著者(『好き?』のあらすじに書いてあった)は、人間同士の営みを詩として言語化しようと試みた、ということか*9。
それで、『結ぼれ』は理論編としてそこそこ抽象化したもの、
対して『好き?』は実践編という位置付けで、具体化された生の経験を詩にしているものなのだろう。
それを意識して『結ぼれ』の本文を読む。
……この作品で目指すところはなんとなくわかったけど、内容はそう簡単には理解させてくれない。
この旅館での短い時間で流し読みしてどうこうなる作品ではないと察し、こちらはまた今度、自分で買って読もうと決めた。序文が読めただけで得るものはあった。
『結ぼれ』を脇に置き、『好き?』に再び手を付けることにした。
少し読み方がわかった。コミュニケーション不全を様々なシチュエーションで再現することでそこから人と人の関係性の本質を解き明かそうとしているわけだ。それで、こちらは実践編だから具体例が多い、と。
相変わらず意味不明な記述は多いが、意図がわかると少しだけ著者に寄り添える気がした。
なんだかんだ唸りながら読み進めていき、最後の一篇、表題作『好き?好き?大好き?』まで読み切った。
詩『好き?好き?大好き?』は、彼女が「好き?好き?大好き?」と何度も確認し、そのたびに彼が「うん 好き 好き 大好き」と返事をする。
彼女が「世界全体よりも?」と訊くと、彼は「うん 世界全体よりも」と返し、
彼女が「わたしのこと 魅力(ミリキ)あると思う?」と訊くと、彼は「うん きみのこと 魅力(ミリキ)あると思うよ」と返す。
これを読んで、自分の率直な感想は、
「彼、いつもこんな会話してて飽きてるんだろうなぁ」
だった。
彼が彼女のことを本当に好きなら、自分なりにもっと趣向を凝らして愛情を表現するだろうと思った。
しかし、彼が本当にうんざりしているなら一緒にいるとは思えないため、心のどこかでは釈然としなかった。
最後まで不和をテーマにした詩集だったな、と結論付けて、訳者の村上氏によるあとがきと、文庫本発刊のきっかけになった、にゃるら氏の解説まで読んだ。
ここでようやく、なぜ本作がサブカルチャーの教科書とされているのか理解した。
本作の詩や思想は、音楽やゲームでたびたび引用されているらしい。*10
こうしたサブカルの人が読む『好き?好き?大好き?』は、自分が読んだときとは全く違う表情を見せているようだった。
曰く、作中に登場する精神病者の語る言葉は、飾りのない本物の言葉だけである。
この常人には出せないまっすぐさが、まっすぐであるゆえに倒錯していく関係性こそが美しく、読者を惹きつけるのだということらしい。
参考に、解説文を寄稿されていた にゃるら氏の『好き?好き?大好き?』評を見つけたのでこちらをどうぞ。
note.com
まだ、この作品の魅力を引き出す"読み"を自力ではできないことを思い知った。
難しい読書をするときに先人の切り拓いていった道を通っていくことは誤読や思い違いを防ぐ点で有効である。
ただ、何も知らないまま読んで大多数の解釈から逸れていくのも、これはこれで面白いな、とも思った。
これはこれでいい読書体験だった。
次は、『好き?好き?大好き?』も『結ぼれ』も買って読みたい。
今回の読書はこんなもんかな。『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』を読んでいた彼は、15分ほど前に風呂へ行った。自分も寝る前にもう一回風呂にしよう。
とんでもない文章を読んで目は冴えている。
いつの間にか、時間感覚はとろけて消えていた。静まり返った廊下には、スリッパを履いた自分の消しきれない足音が響いた。
浴場には友人一人のみ。
彼が持ってきた『好き?好き?大好き?』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の感想をひっさげて露天へ入る。雨は控えめに降っていた。
聞こえるのは、自分が入って溢れた湯と、湯舟へ静かに落ちるノイズのような雨音、それと深い吐息のみ。月は隠れ、厚い雲が淡く光る。山合いの景色が映える昼の景色は見事だが、何も見えない夜もまた風流である。
勿体ない気持もあったが沈黙を破り、『好き?好き?大好き?』を読んだ感想を話した。その後、彼が読んだ本の話も聞く。
彼は、昼間に読んだ『パーティーが終わって、中年が始まる』が大変に堪えていたようだった。
老いは他人事ではない。
『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』で、自分がゲームを楽しめなくなりつつあることに気付いた。これも老いのせいかもしれないし、実はもっと別の心境の変化によるものかもしれない。
自分も来月で27歳。老いに対して先手を打てるチャンスは、もう多くないと思う。
などなどと深夜らしい話をしていると、気付けば雨脚が強くなっていた。内風呂に逃げ込む。もう少し話をして風呂を出る。
4時半、就寝。
両隣の寝言や屁に少々気を取られながらも、さすがに限界まで疲れていたので程なくして入眠。
7時半。早く寝た二人に起こされ、もぞもぞと蠢く。
8時の朝食までになんとか着替え、帰り支度まで済ませた。偉い。
朝飯。写真撮ってなかったのでイメージしてください。
ハム2枚が載ったサニーレタスのサラダ、ゼンマイの小鉢、魚の甘露煮と沢庵に青唐辛子味噌、さらに梅干しと海苔、温玉、そして信州味噌の味噌汁とおひつに入ったごはん。
そう、米を食べるための朝食。理想の朝食です。
4人ともがっつき、いつの間にかおひつが空に。うまかった。
部屋に戻ってチェックアウトまで二度寝。これがまた格別なのよ。
10時、楽しい時は一瞬で過ぎる。惜しみつつ退館。
チェックアウトの会計時、女将さんへ飯が美味かった旨、きっと来年も来る旨を伝えた。
来年か……。来年も来れるといいな。でも次は別の場所に冒険しても楽しそうだ。
起きた時は土砂降りだったが、旅館を出るときにはいくらかマシになっており、車で下山して街に出た頃にはやがて快晴となった。
12時前、松本駅で土産物を見終え、昼飯へ。
今日も蕎麦を食べる。
昨日の酒と睡眠不足が少し残っているから、シメの山菜そばといこう。
かなり短くてプチプチとした食感の麺が特徴的だ。大胆に箸を突っ込み、ワシワシ食べる。美味かった。
対面の席で昼から酒を飲んでいる奴がいる。夜明け前か。一口もらった。昨日の生酒(大雪渓)とは違うけど、こちらもうまい。
13時、「また何かしよう」と声を掛け合い、二人と別れる。
特急列車は定刻通り出発した。帰りの電車がちゃんと出てくれて安心した。
帰りの電車内で、初参加の彼から満足してくれたと話が聞けてこちらも安心。
車窓に映る山々を眺めたり読書メーターに感想を投稿していたら、いつの間にか熟睡していた。
そして今日。
会社から帰ると、未だに自宅がほんのり硫黄の匂いがして驚いた。
あの旅行から今は地続きってこと。だからまたいつでも行ける。
いやあ、今年もいい旅だった。
来年も読書合宿をしたいし、来年まで待たずとも何か楽しいことがしたい。
さあ、次は何をしようか。
(追記)
読書合宿に一緒に来てくれた友人が感想を書いたので、こちらもどうぞ。
ankakeassa.hatenablog.com
*1:豊田市で開催していた橋の下世界音楽祭。ヘヴィなロックや東アジアの民謡・民族音楽系のアーティストが多い。怖いお兄さんや半裸のお兄さん、発光するおじさんと一緒にノッたり踊ったりできる貴重な機会で楽しかった。
*2:自分自身が謙虚な友人たちと比較したらそこそこ厚かましい気がすることは置いておく。こういうのは濃淡があって、もっとすごい人はいる、と言い訳しておく。
*3:『パーティーが終わって、中年が始まる』だけは、今回参加しなかった友人の本。ちょうど借りており、自分と彼の意向で今回持参することに
*4:正式名称はキッズコンピュータ・ピコ。セガトイズ製の知育ゲームハード。絵本型のカセットを挿し、タッチペンなどで遊ぶ。ぐ~チョコランタンのソフトをよく遊んでいた記憶がある
*5:2021年。グラフィックの一新、レベルのリセットなどさまざまな点で実質新作だが、超大型アップデートという位置づけ。旧PSO2のキャラクターをそのまま持ってこれる上に旧PSO2のマップに戻ることもできる。
*6:職業≒他のゲームで言うところのクラス。好きだった職業はエンジェリックバスター。戦闘中に変身し、「戦場のアイドル」として正体を隠しながら悪と戦う、魔法少女とアイドルを混ぜたキャラクター。変身バンクが大好きだった。……のだが、あろうことか、リメイクによって魔法少女要素がほぼオミットされてしまった上に、キービジュアルも変更、変身バンクに至っては旧デザインを基にしていたため削除されてしまった。ネクソンは"わかってない"。
*7:ここでは「成人している人間」を指す。精神的に未熟でも成人してさえいれば合法的に子供を持つことができるため。
*8:担任の先生のように、「自分と同じ歪みを今の子供に味わわせたくない」という行動がとれるようになることをそう呼んだ
*9:ちなみに『好き?』の日本語版は1978年、『結ぼれ』は1973年刊行。サブカル系の表紙は罠もいいところである。表紙だけ見てラノベだと思って読んだ
*10:あの奇ゲーとして名高い『serial experiments lain』の主人公、岩倉 玲音(れいん)の名前は著者R.D.レインに由来していると知って驚いた。