一日の中で最も内省的なのはシャワーを浴びているときです。
ここ最近、自分の趣味・意欲の源泉についていつも考えています。
自分が本当にやりたいことは何か?それはどこに魅力を感じているのか?
ずっと考えていたら、時折、「生きがいとは何か?」という一般的な問いに落ち着きます。
今日は、浴室で書いていたメモをまとめ、加筆しました。
(自分は風呂で何か思いついたときのため、壁にKaiteという磁性メモパッドを貼りっぱなしにしています。使用感はまあまあ。*1)
結論は出ないですが、現時点で思いついたところまで書き残します。
生きがいとは何か?
↑陳腐だが重要だと思う。 ←なぜか?
大辞林を引いてみた「生きるに値するだけの価値。生きていることの喜びや幸福感。」
なぜ生きがいが重要なのか?
生きがいがないと退屈で、日々を無気力に生きることになる
天井だけ見て休日を過ごすことに耐えられない
なぜ日々を浪費することが耐えられないのか?
休日や退勤後を充実させないと、平日の労働が苦しくなってしまうから
労働への意欲を休日に補充しているから
(なんのための労働か?いつ使うための金を稼いでいるのか?将来といっても具体的実感はない。実際はきっと休日を楽しく過ごすためだろう)
↑
働かなければ休日(日々)を無目的に(無気力に)生きても幸せか?
自分は無職になった経験がないためわからないが、想像する。
- 「時間が無限にある」という幻想から醒めなければ幸せでいられるかもしれない(自分が社会人になってゲームに夢中になれなくなったのは元を辿ると時間的制約のため)
- 社会から切断され、個人的な目標を追いかけるのは幸せかもしれない
note.com
ただ、どこかで誰かと繋がっていないと、自分は孤独感で狂ってしまいそう。一人は好きだけど、ずっと孤独なのは苦しい。
いくらカッコつけて孤高ぶっても、自分を理解してほしいという願望は本能に近く抑えられるものではない。
もちろん孤独感を埋めるのは仕事である必要はないし、仕事で孤独感が埋まるとは限らない。
とはいえ、仕事の一側面として社会との接点を維持するという役割があると評価しているので、代替手段が見つかるまでは仕事がある前提で考えるべきだと思う。
「生きがいとは何か?」 まず思いついたこと
「生きがいとは何か?」という問いに対し、答えになりそうなものの条件
- それが無ければ(奪われたら/失ったら/達成したら)死んでもいいと思うもの
- 掛け値なしに好きと言えるもの
- 人生をかけて達成したい目標、極めたい技術
- 「気晴らし」的行為*2だと知った上でやめたくないこと
- 命の次に大切なもの
- 純粋な内発的動機によるもの
↓
ここから連想できるもの
趣味、自己表現、芸術、家族、子供、コンクールの賞、スポーツ、居場所、承認欲求、勝利、最強、子供の頃好きだったこと
ゲームが生きがいだった自分について
小学生から社会人の数年までの自分に「生きがいは何ですか?」と聞かれたら、「ゲームすること」と答えていると思う。
あるいは、ゲームをすると熱中することは食事すると腹が膨れるのと同じくらい当たり前で、逆に「生きがい」だと気付かないかもしれない。
生きがいを考えたとき、最もプリミティブかつ強固なのは「既に好きなものを理由もなく盲信的に追い続けること」である。
ただしこれは、一度「なぜこれが好きなのか?」と考え始めると、この思考には戻れない。メタ認知のスパイラルは止められない。
自分の場合だと、スマブラで時間が足りなくて学生に勝てないことに気付き、選手として諦めた時点では、まだゲームそのものには熱中できた。
そこから発展して「自分はスマブラの(これまでにハマったゲームの)何が好きだったのか?」と考えてしまったタイミングで、他のゲームもまとめて少し醒めた視点に立ってしまった。
したがって、一度生きがいを考えてしまった人は、なんとかして理性で生きがいを見つけるしかない。(「恋は盲目」というので、恋とか愛を知れば解決かもしれない。残念ながら今の自分には縁がない。)
「生きがい」はその人のニーズを満足することだと思う
「生きがい」は初めから具体的な一つの行為に定まるのではなく、あるニーズを満足する複数の行動が生きがいになりうる。ニーズとは、自分が求める望ましい状態のことを指す。
ニーズの例:(親族や友人との)コミュニケーション、ゾーン体験(全神経を使って没頭する)、他者の役に立つ、尊敬される、他者を従える、など。
例えば、ある老人のニーズが「息子夫婦や孫の役に立つ」ことであるとする。
その老人の生きがいは、「孫の料理を作る」「魚を釣って家系の足しにする」「自分の身の回りのことを自分で行う」など、その人の暮らしに合った具体的行為として表出する。
ありそうなやりとり
「あなたの生きがいはなんですか?」
「ここの川さ綺麗だでね、魚ッコ釣っで婆ァさんに炊いてもらうんですわ。(架空方言)」
自分の「生きがい」は何か?
自分のニーズは何かは、きっと過去に夢中になったことを分析すると見えてくる。
過去の自分は所属するコミュニティの中で偉くなることだったと分析している。
今はきっと親密なコミュニケーションがニーズになっていると思う。
だから、コミュニケーションを活性化させる何かが「生きがい」になりうるのではないだろうか。
今はこう思っているけど、もしかしたら全然違うかもしれない。
急いで答えを出す必要などない。いろいろやってみて、合う分野をセンシングしていくのがいいと思う。
夢中にならない生きがいもある
先週、市展を見に行った。工芸部門の展示室で受賞作品を眺めていたら、最優秀賞を取った80歳の老婦人と話す機会があった。その方は、赤と黄色に色づいた落ち葉の形のお皿を2枚出品し、細部までこだわった作りで評価されていた。
「私、秋が大好きなの!それで、私の好きなものを作ったの」
婦人は、こう話して、自分が幼いころから秋が大好きで、部屋が拾った落ち葉だらけになったことや、ものづくりの楽しさ、手に職をつけることの重要さを私に力説してくれた。
そんなやりとりがあって、すぐ後に友人にそのことを話した。
夢中になれることがあるのが羨ましい、自分もゲームに代わる、夢中になれることが欲しいと話した。
それを聞いた友人の反応は、自分にとっては意外にも批判的なものだった。
「夢中になることは必ずしもいいことではない。例えば、SNSを見ていて気付いたら長時間が経っているのも夢中になっていることには違いない。自分は夢中にはならないほうがいいと思っている」
というような意見を頂いた。
確かに、夢中になったり没頭した状態は周りが見えていないので、誤った選択をしがちになる。何かに夢中になった状態は気持ちいいが*3、必ずしも夢中になっている必要はない。
また、「生きがい=夢中になれること」とは限らない。
例えば、ある百寿者へのアンケートで、幸福感の構成要素を調査したものがある。
これによると、「日常生活に関心事を見つけ出す」「他者との良い関係性を築くこと」などから幸福感を培い、これが高齢者の生きがいになっている。
百寿者と私たちの間では考え方がかなり異なるかもしれないが、(特定の趣味や仕事ではなく)日常生活に根差した「生きがい」があることは、「夢中にならない生きがい」を考えるうえで参考になるだろう。
(一般財団法人 長寿社会開発センター『生きがい研究』第29号より。研究誌のバックナンバーがpdfで読み放題です。↓)
nenrin.or.jp
読書メーターの感想も貼っておきます。
『暇と退屈の倫理学』に学ぶ生きがい
さきほど、『暇と退屈の倫理学』という本を通読した。
(本書のネタバレを含みます)
生きがいが無い状態は退屈である、と考えると、「生きがい」と「退屈」は決して無関係ではないだろう。
本書で特に印象的だったのは、退屈への回答として
「贅沢を享受して、ちゃんと満足する」
「人間であることを楽しんで、動物になること(≒ある物事に没頭すること)を待ち構える」
の二つを挙げていることだった。
本書のコンテクストを踏まえて、自分流に「生きがい」的に言い換えるなら、
前者は「ごちそうを食べたり芸術を観て、日々満足した暮らしをする」
後者は「自分の好きな物事を楽しみつつ、没頭できることを探す」
といった感じになるか。表現があまり変わっていない気もする。
前者は日常生活に満足する百寿者のアンケートに近いものを、後者はかつてのゲームで頂点を目指そうとしていた自分や工芸の老婦人に近いものを感じた。
こう考えると、生きがいというものは必ずしも「人生における究極の目標」みたいな大層なものである必要はないんだろうな、と思う。
とはいえ、没頭したときのエネルギーは凄いことを身をもって知っているため、そういう高尚な目標がある人に憧れがある自分がいるのも事実ではある。
最後に
今日はこんなところで。
また見返して、書きたいことが増えていたら追記します。
あなたの「生きがい」はなんですか?
ぜひ教えてください。