序文。今回は閲覧注意
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酒が入ると暗い話をしたくなる。
普段、何もしていないと、次から次へと過去の苦しい思い出や今後起こりうる憂鬱な出来事を考えてしまう。
日中は仕事*1やゲーム、読書で紛らわせられるが、夜、無心になるとつい頭に隙間ができてしまう。
自然状態で考えている事柄なだけに、やはり語りたいことは多い。しかし他人の不幸・不安の話を聞きたがる人など誰もいない。必然的に内へ溜まっていく。
だから、酒が入り、口の戸が立たなくなると暗い話が溢れ出てくる。
酔った人は隣の人間にダル絡みするものだが、私が飲むときは大抵隣に誰もいない。だから文章を書く。
本当に誰も喜ばない他家の暗い話だから、誰も読まなくていい。ただ、読むと、私のメンタリティの中枢を掠めるかもしれない。
こんなことを文章化する意義は、薄れつつある幼少期・学生時代の記憶をとどめておくことにある。過去にも個人用のメモで何度か文章化しようとしているが、失敗している。
かつて親鸞は『正信偈』を編む際、ありがたい教えを一文字記すごとに涙したという。これまで、この話題について文章を書くとき、一文字ごとに深くて暗いところへと落ちていく気がする。グラフに喩えるなら降伏電圧を超えたダイオードである。 これに耐えられなかったのが失敗の原因である。
酒と仕事納めとブログの力を借りて、今夜はココロの深淵まで潜ってみる。
実家と祖母と母
実家
実家は6人家族だった。
父方の祖父母、両親、兄と私。
祖父母は地域の産業だった紡績業の流れを汲み、裁断業を営む自営業だったらしいが、私が生まれた頃には既に引退していた。
両親は私の幼児期こそ祖父母の裁断業を継いでいたが、地域産業の衰退に伴い、私が小学生の頃には父が塗装業を開業していた。母はパートをしている。
祖母
幼い頃の私から見た祖母は、活動的な人間だった。
祖母は老人会つながりのイベントにいつも参加していた。
孫の自分が知っていただけでも、
菊の栽培(冬は植木鉢をリビングに入れて暖房を炊いたり、結構本格的だった)、
詩吟(老人会の詩吟の会合について行った覚えがある)、
ゲートボール(たまに大会があった)に取り組んでいた。
ゲートボールなんかは、私も実家の工場(こうば)で遊んでいたことがある。
老人会とは関係ないが、農作業もしていた。実家の庭に加え、母校の小学校と中学校の近くに畑を2つ借りて祖父と二人で面倒を見ていた。
しかし、私が10歳くらいのとき、当時75歳くらいの祖母は、それらを全て辞めてしまった。断片的に聞いたところでは、老人会の人間関係が嫌だったとか。あるいは単純に疲れてしまったのかもしれない。
その後も老人会の集まりはたまに顔を出していたようだが、手のかかる趣味の類は全て辞めた。借りていた畑はしばらく持っていたが、私が中学校を卒業する頃にはどちらも手放した。
活動的だと思っていた祖母は、いつの間にかずっと家か庭にこもりきりになっていた。それでも共働きの両親に代わって料理を作ってくれたり、祖父母自身の分の家事は自分でやっていたが、いずれにせよ一日中家にいるようになった。
引きこもりがちになった祖母は(畑を手放してからは祖父も)、見る間に元気を失っていった。
年相応に病気には罹っていたが、それを差し引いても、体力よりも気力の衰えが顕著だった。
母
学生時代の私は母離れできていないできていない子供で、母もまた子離れできない人間だったと思う。
母は月曜から土曜はパートタイムの仕事をしている。私が小中学生の頃は違ったが、高専に入ったくらいからは、現在まで食肉加工の物流センターで働いている。
小学生の頃、私は兄とドッジボールのスポーツクラブに通っていた。日曜の午前中はドッジボールに行って、午後は母親と、(休工日なら父も加えて)どこかへ出かけていた記憶がある。
中学生になっても、暗黙のうちに、休日は母親と毎週どこかへ出かけていた。特別行く場所などないので昼前にショッピングモールや満喫、親戚の家へ行き、夕方になるとスーパーに寄って帰宅する。
毎週一緒に行動していたことへの理由は特になかったし、一緒に来いと強制された記憶もない。強いて目的を挙げるとしたら、日曜日以外は毎日パートに出ている母親と、塗装業の一人親方で不定休の父親への、子供なりの家族サービスのつもりだった。
高専生になってからも、実家を離れた兄の車を借りて友人宅に入り浸るようになった20歳の年まで、その習慣は続いていた。この頃は明確に、親の休日でも自室にこもってゲームしていることに対して引け目を感じていた。
中高生の私は、些か内向的だが、両親に対して反抗期のない、とても、とても「いい子」だった。
暗黙のルール
昔はよかった?
母はたぶん昔から祖母のことが嫌いだった。
俗に言う「嫁姑問題」である。
祖母は昔ながらの家庭観を重んじている。例を挙げるなら、
「年中行事はしっかりやる」
「食事は記念日以外、基本的には三食とも家で食べるべきである」
「朝食と夕食は一家全員が揃っているべきである」などと考える人だった。
18時に夕食が完成していても、父が帰る20時まで待つことは珍しくなかった。
一方で、母は祖母からの不干渉を強く望んだ。裏を返すと、母は祖母が生活に口を出してくることを気に入らなかった。
2階は両親の部屋と私と兄の寝室だったが、祖母がたびたび2階に上ってくるごとに、母は機嫌を悪くした。
(逆に言うと、母が1階のリビングでくつろいでいる姿を、私が実家で暮らした21年間で一度も見たことが無い。私の乳幼児期は流石に知らない。)
母は、そんな祖母のことを疎ましく思いながらも、態度に表出させることは少なかったように思う。少なくとも、私は、歳が一桁だったときはそのことに全く気付いていなかった。
幼少期の私にとって、自宅は居心地のいい空間だった。
そんな母の態度が変わったのは私が10歳の頃である。そう、祖母が家にこもりがちになり始めた時期である。
家にいるようになった祖母は、以前よりも家のこと、家族のことに口を出すようになった。
母が休みの日にも祖母は大抵家に居るようになり、頻繁に家事のことで話しかけた。
そうなると、母の祖母への態度は急激に硬化していった。
台所事情
実家の台所事情は母と祖母の分業制だった。
車でスーパーまで買い物に行くことが難しい祖母に代わって、母が毎週日曜に一週間分の食材を買ってストックしておく。
祖母は、日曜以外は働いている母に代わって、祖父母だけの昼食と、6人分の夕食を作る。献立は、冷蔵庫に恣意的に配置された食材から判断するか*2、あるいは母の「明日は〇〇を作って」というオーダーを聞いていた。
朝は大抵、夕食の残りか、母による(多めに作られた)弁当の具を食べていた。 母によって朝飯が作られることもあった。けっこう美味かった。
夕食のメニューはカレーとお好み焼き、味付済みの鶏肉が比較的多かった。
これらには利点があった。
カレーは調理が簡単で、米にかけてすぐに食べ切れること。
お好み焼きは一気に焼けないため、食べる人だけが時間を分けて食卓につけること。
鶏肉は母のパート先(鶏肉加工場)にて格安で手に入り、また調理が簡単なこと。*3。
私はお好み焼きを食べ過ぎて嫌いになった。
静かな食卓
母の叱責
こうして毎日の食事が作られており、母の態度が悪化してからも続いた(おそらく今も続いている)が、以前とは少し事情が変わった。
祖母によって、米を炊く量を間違えたり、作る料理を間違える、使うべき食材を見落とすと、母が祖母を叱責するようになった。
食事時に祖母が「腕が痛い」「鍋が重い」などと言うと、母も「私も一日中立ちっぱなしで辛い」などと文句を言っていた。実際どちらも苦労していたと思う。(自分は何をしていた……。たまに手伝ってはいたが……。)
こうした諍いは、夕食時に発生した。
食事時間が苦痛に
そのせいで、次第に夕食から会話が消えていった。小学生の私は、純真無垢、悪を知らない天使のような子供だった(全く冗談ではない)。
この頃は全く気にすることもなく二つ年上の兄ととりとめのない話をしていたと思う。この時期は単純に関係悪化がそこまで表面化していなかったかもしれない。
→さっき知ったが、そんなことはなかった。小学校高学年当時の私は、「母と祖母の喧嘩」だと認識していた。兄からのLINE参照。
しかし、そんな私も、中学・高専に上がるにつれ、実家の居心地の悪さに気づいた。食事の時間が苦痛だった。
祖母の弱音と母の刺々しい物言い、無言で食べていた父がこの頃から言うようになった、独り言のような「うめえなあ」という具体性に欠けた感想*4、胃がん退院後の祖父の嘔吐き。
あとは食器の音が虚空に消えるだけの食卓で、楽しい話などできようものか。
ちなみに食事中はテレビが切られていた。祖父母の意向だった。
言論統制
食卓において私の席は、母の右、祖母の左だった。
母は、母自身のことを祖母に知られることを蛇蝎の如く嫌った。正確には違うかもしれないが、私はそう解釈した。
「先週の日曜に母さんと〇〇に行ったとき——」などと不注意に話すと、テーブルの下で左から脚を軽く蹴られるか、腿をつねられた。顔を見ると母は目だけでこちらを睨んでいた。
普通に話をしていたら、自分では全く問題に思わなかった何かが気に入らなかったらしく、蹴られたこともあった。
そうなると、時折こちらもムキになって小さく肩をすくめ、「何が悪いのかわからない」というジェスチャーをしたり、にやりと笑ってそのまま話を続けることもあった。
この時点で、既に家族団欒の場にあるべきコミュニケーションではなかった。
小食で早食い
多忙な父は食事を食べるというより詰め込むと、すぐに事務所に引っ込んだ。
兄はリビングでテレビを見始め、母はすぐに洗い物を始めた。
食事には20分も必要なかった。ゆっくり食べていたのは祖父母だけだった。
私も可能な限り速やかに食べ切った。急かされている気がした。
高専時代、夕食で食べていた米の量は今の7割程度だった。今の一食分は0.6合程度で、今考えると当時はかなり少なかった。ちなみに昼の弁当には夜の倍くらい入っていた。
ちなみに自分で量を調節していたので虐待ではない。偶然か必然か、当時の私はラーメン以外の食に興味が無かった。
無言で掻き込み、食器を水で軽く流す。食洗器を買ってからは、食洗器に突っ込む。そしてお勝手*5を出る。
中学時代の自分はニコニコ動画とメイプルストーリーに、高専の頃はPSO2とスマブラにハマっていた。
はやく自室でゲームがしたいのは間違いない。しかし、残って飯を食う祖父母がどうしても不憫に見えて仕方がなかった。私は、しばしば、お勝手の出口、扉のあたりに突っ立って、洗い物をする母と飯を食う祖父母を眺めた。母から「何しとんの」と言われるまで眺めた。それ以上のことはできなかった。
祖母は強情
こうなってしまった時点で、祖母には酷だが、母に対する干渉をやめて、自然と家庭内別居のような形になっていればよかった。しかし、祖母は強情だった。
「家族はこうあるべき」という理想を強く持ち、それを我が家へ必死に適用しようとしてしまった。
私が高専生の頃、祖母がその思いを母に訴えたこともあった。
やはり激しい言い争いになった。
二人の語気が強くなったあたりで自室に駆け込んだ。
大きな物音が聞こえた時点でイヤホンをつけた。
詳細はわからないが、それによって何かが変わった実感はなかった。
そういえば、いつの間にか朝食は一緒に食べなくなっていた。
私と祖母
私と祖母の関係も、母と祖母の関係に少なからず引っ張られた。
私と祖母は、小学校の頃までは一緒に遊んでいた。
まわり将棋や挟み将棋をよくしていたし、両親に買ってもらったばかりのDSLiteでNewスーパーマリオブラザーズのミニゲームを遊んだこともある。
ほとんどが「ばあちゃんには難しいわー」と断られたが、ミニゲームのひとつ、[ボムへいをわけろ!*6]だけは異常に上手く、私が何度やっても記録を抜けなかった。
また、祖母に100点満点のテストを持っていくと、「あんたはえらいッ!」と頭を撫でられ、お小遣いを100円くれた。
中学、高専になっても、祖母から私への扱いは変わらなかった。 *7
私の方も、中学まではいい孫をしていたと思う。しかし、高専に入ると少しずつ生意気になっていった。
私の生活習慣は日に日に崩れ、昼夜逆転の様相を呈した。
午前2,3時までゲーム、朝6時に起きて寝ながら飯を食い、7時の電車で通学した。
そんな私を両親は叱ったが、祖母の叱責は両親のそれよりも一際多かった。
もう寝る時間まで家族に指図されるような歳じゃない、と思いつつ、何を言われても生返事で、ろくに話を聞かなかった。
祖母は強情だったため、毎日私の部屋に来て注意した。*8
あまりしつこいので、両親には来なかった私の反抗期は、祖母に向かった。
明確に反抗することはなかったが、最終的に高専を卒業するまで、なんとなく素っ気ない対応を続けていた。*9
母vs祖母という構図において明確にどちらかに味方したいわけではなかったが、祖母に反抗するという形で一致してしまった。
この関係——具体的には、無言の夕食を家族全員で摂り、祖父母*10との会話は、「おはよう、おやすみ、いってきます、ただいま、風呂出たよ、」その他少数の日常会話だけの関係——は、私が就職し家を出るまで続いた。
現在の私と実家
『たまに息子が帰ってきたら会話も弾むだろう』作戦
今、実家には2か月に一度ほど帰っている。
学生の頃のように両親との外食はたまに行くが、実家で手料理を食べることはほとんどない。*11
しかし、こんな自分でも実家の飯が恋しくなることはある。
実際、年に1,2回は実家で食べることはある。
しかし、会話はやはりない。
少し話を振ってみるが、返事も乏しい。
というか、祖母が会話に入ったとき、母を点火させない話運びをする自信がない。
本当に殺伐としている。
実家の飯の風景に「殺伐」なんて言葉など使いたくないが、この上なくしっくりきてしまう。
正直、もう、帰って食べた実家の飯の味など覚えてない。
攻撃性を孕んだ声を聞くごとに、実家に帰ったことを後悔してしまう。本当に辛い。
昼間なら
社会人になってから推進していた『たまに息子が帰ってきたら会話も弾むだろう』作戦は効果が薄い。
もはや食事の場での団欒は諦めた。
しかし、やはり祖父母が不憫に思えて仕方がない。連休で帰省する日は昼間に帰って、ぼんやりテレビを眺める祖父母と並んで本を読んでいる。
学生の頃よりも更に元気なく見える。たまに振られる話題は5年前からほとんど同じもの。
「(ダンク)は、、、〇〇に就職したんやっけ?」
「おぉ、ええ会社やなぁ。給料はいっぱい貰っとるかね?」
私:んー、ぼちぼちやなー。
「そうかね。若いうちはたんと貯めやぁよ」
「ええ嫁さん見つけなあかんよ」
私:嫁さんなぁ、出会いがないなぁ。
「そうかぁ、じいちゃん、楽しみにしとるよ」
私:お土産、買ってきたから食べてよ。今回はほうじ茶ロールケーキ。冷蔵庫入れとこか?
「おお、わざわざありがとうねぇ。今食べるわぁ。——んーっ、こんなうまいもん、食べたことないわぁ」
兄からのLINE
どうしてこんなことになってしまったんだ、という悔恨の念に駆られながら文章を書いていた。
そうしていたら、今年、この関係で特大のトラウマエピソードを引いてしまい、放置していたことを思い出した。心の整理のため供養する。
現在、兄はフリーで営業の仕事をしながら、実家の塗装業を手伝うため、頻繁に帰ってきている。
兄は、物置部屋になっている部屋を片付けて自分の部屋を作ろうとしていた。
そんな兄から、3月にこんなLINEメッセージが届いた。
兄「さらに13年、仲直りしてません笑笑」
文章とサムネイルから、小学校のなんらかの行事で、私が両親に充てた作文だと確信した。何を書いたかはなんとなく覚えていた。
このメッセージを見たのは会社で、勤務中だった。直視したら正気でいられないことを確信した。
あの作文が現存していたという事実に驚愕。
前触れなく最もセンシティブな事実を直視したことへの憔悴。
何より、「あの」作文を読んだ上で、本人へ茶化せてしまう兄への失望と憤懣。
サムネイル中の原稿用紙を見ないよう薄目を開けつつ、震える手でなんとか返信。
「廃棄で✋」
とにかく動揺を悟られまいとするので精一杯だった。
結局、その後数日間ずっと思い出してはキレていたし、今も許してはいない。
あのメッセージから9か月。ようやく心の整理がついたので、読んでみた。
最初、文字起こししようとしたが、発狂しそうだったのでやめた。
気になったら読んでみてください。「12歳のぼく」の字なので、読みづらいですが、親になった気分で読んでみてください。
12歳ということは、小学校卒業あたりの保護者同伴イベントですね。
関係悪化してから2年くらいです。
両親の前でこれを音読した覚えがあります。
当時はただの喧嘩だと思っていたみたいです。かわいいね。
本人に言えば、仲直りしてくれると思ってたみたいです。かわいいね。
さらに13年、仲直りしてないね笑笑
……ぼく、あのときから仲裁に入ってるじゃん。なんも悪くないじゃん……
終わった話ではない
ひとしきり書いていたら夜が明けた。編集してたら昼になった。アルコールも抜けた。文章を読み返しながら締めの文章を打っていたら涙が止まらない。画面が見えない。嗚咽が止まらない。誰か助けて。
これじゃ年末帰れない。
*1:仕事だって憂鬱?最近、まだマシに思えてきた
*2:例:はんぺん、ごぼう巻き、こんにゃくを手前に寄せる→おでんのサイン
*3:鶏肉を除き、こんなこと直接聞くわけがないため想像。だが遠くないと思う
*4:当時、夫婦間に何かあったらしいが掘り下げない
*5:キッチン=勝手場のことを実家ではそう呼んだ
*6:赤色と黒色のボム兵をタッチ操作で左右にあるエリアに仕分けする。一度でも仕分け先を間違えるか、ボム兵出現後に一定時間経過し、爆発するまでの個数を競う。
*7:次第に100点が取れなくなり、また100円の価値も相対的に落ち、「また100点取ったかね?」がストレスになった。
*8:自室はもともと客間だったため、部屋のドアに古めかしい型板ガラスが嵌まっている。室内の様子こそ見えないが、部屋が明るいことは一目でわかる。
*9:今では後悔している。今では、帰省のたびにお土産を買って帰っている。喜んではくれているが、根本的な解決にはなっていないことも理解している。
*10:祖父は大抵祖母と一緒にいるためこうなる
*11:普通に夜に予定があることもあるし、実家飯を食べないために寄り道することもある。
*12:本文を読み返したら、母を余りにも悪しざまに書きすぎていた。母は悪い人ではない。
母は定常的に子を愛している。私も母に甘えっきりだった。
たぶん、子が先に死んだら追いかけて死ぬタイプ。
祖母と仲が悪かっただけだった。そう思っている。
ただ、離れて住むようになり、一歩離れて見ると、感謝は揺るがないが、家庭内の振る舞いには考えさせられるものがある。